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ブログ「てっきゅう先生のここだけの話」

 

中谷哲久先生のブログ「哲久先生のここだけの話」

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受験のアルゴリズム
2018-01-13
受験を生徒それそれの能力、個性に応じて 受験までのスケジュールをフローチャート化して指導できないかと考えています。
それを体系化して「受験のアルゴリズム」を完成すべく進めています。
アルゴリズムとは
「ある問題状況において、正解を引き出すための一定の手続きまたは思考方法のこと。その通りに実行すれば必ず特定の結論に達するというもので、数学の公式やコンピュータのプログラミングはアルゴリズムの代表といえる。 アルゴリズムと対置する概念として、必ずしも正解を保証しない方法であるヒューリスティックスが挙げられる」とあります。
今でも、現場の先生の直感と勘で指導する「ヒューリスティクス」型のの指導が多いように思います。
「受験のアルゴリズム」を構築して受験生の役に立てたいと奮闘しています。
 
受験はテクニックと言われますが・・・
2018-01-11
さまざまな受験テクニックがあります。
そして そのテクニックは役に立ちます。
しかし、しかしです。
基本的学力が前提なのを忘れないでください。
知識、知恵がゼロでは どんなテクニックも機能しません。
基礎基本から積み上げていくことでテクニックも磨かれていくものです。
 
和田秀樹先生のコラムです。
2017-11-09

日経ビジネスより

 

 社会がアメリカ型になってきたり、知識社会と言われるようになってくると、あるいは、単純労働がロボット(かつては移民)などで代替されるようになってくると、知的レベルの高い人間、頭のいい人間だけが生き延びるようなことが言われる。

 今回は、サバイバルのための頭の良さ、あるいは、それを獲得するにはどうすれば良いかを考えてみたい。

 
一流の大学院を出ているのに社会に出て成功できない人は、「思考力・判断力・表現力」は高いが、自分の感情のコントロール能力や自己動機づけ能力、対人関係能力が悪いことが明らかになった。(c)Asawin Klabma-123RF

頭の良さの定義は一つではない

 頭の良さの定義は、昔と比べて多様になっている。昔であれば、仕事の処理能力が高い人、あるいはペーパーテスト学力が高い人であれば、頭がいいと言われただろう。ところが、2020年度の大学入試改革の答申では、知識や数学の問題を解く能力などは従来型の学力と切り捨てられ、思考力・判断力・表現力を中心に評価すると明記されている。

 一方、現在の心理学(脳のソフト全般を扱う学問であり、知能テストは世界で最も使われる心理テストとされる)では、頭の良さの定義は様々な形でなされている。もともと知能指数が高い人間が頭のいい人間とされていたのだが、ハーバード大学のハワード・ガードナーという心理学者が1980年代に「多重知能論」というものを提唱した。

 言語的知能や論理数学的知能のように、一般にテスト学力につながるものだけでなく、音楽的知能や対人的知能など8つの知能を想定した。要するにいろいろなタイプの頭の良さがあると考えられたのだ。

 1990年代になると、ハーバードのビジネス・スクールのような一流の大学院を出ているのに社会に出て成功できない人が2割ぐらいいることが問題視されて、そういう人たちに欠けている能力の研究がされた。彼らにはペーパーテスト学力だけでなく、入試の際に面接も小論文も課されるし、講義だけでなくディスカッションもカリキュラムに組み入れられているから、文科省のいう「思考力・判断力・表現力」がみな高い人たちの集まりのはずだ。

 結果的に、そういう人たちは、自分の感情のコントロール能力や自己動機づけ能力、対人関係能力が悪いことが明らかになった。確かに東大、ハーバード大を出た政治家が感情のコントロールができず、議員の座を失ったが、この手の能力がないと頭の良さが吹き飛んでしまうのは確かだろう。これらの能力は「感情の知能」と呼ばれ、これをTIME誌がIQ(知能指数)に対抗してEQ(心の知能指数)と呼んだことから、EQという名で呼ばれることが多い。

頭の良さは固定的なものではない

 ただ、どの頭の良さの定義を使うにしても、それをいつも維持できるものではないと私は考えている。

 日本の場合は、頭の良さが固定的に考えられることが多い。

 私は今年で57歳だが、東大の理科Ⅲ類に合格して、東大の医学部を出ているから頭がいいといまだに言われたりする。40年前の受験生時代なら、受験学力(もちろん頭の良さの一種であるが、それだけで頭がいいことにならないのは前述の通りだ)ならそうそう人に負けない自負があったが、今もう一度東大を受けろと言われても受かる自信はない。一応、教育産業に携わっているから、ある程度は入試問題に触れているが、数学力も記憶力もとても受験生時代のレベルが維持されているとは思えない。

 ただ、私自身はその頃より頭が良くなった、というか、昔の自分はバカだったと思うことはある。大学生時代はろくに勉強しなかったが、大学を出てからはかなり勉強しているつもりだし、精神科医として心理学を勉強したことや人生経験を積んだこともあって、対人関係スキルはずいぶん上がった気はする(昔が酷かったこともあるが)。

 中学受験や高校受験のときは負けていて、二流どころの中学や高校に入っても、3年なり6年の勉強で逆転して、東大や医学部に入ることがある。そのように、どこの大学に入ったとしても、その後にどれだけ勉強したかで5年、10年のうちに逆転することはあるだろう。というか、あって当たり前だ。

 例えば、東大教授という肩書きにしても、確かに教授になった時点では、その分野ではかなり高い知的能力を有しているのだろう。しかし、日本の場合、大学教授は定年まで身分が保証されるのと、雑務が増えるので、ろくに勉強しないという人は珍しくない。例えば、本年度のノーベル経済学賞は心理学と経済学を融合させた行動経済学者のリチャード・セイラーが受賞したが、東大の経済学部の教授で、経済の心理的影響に言及するような人を私はほとんど知らない。

 それ以上に、頭のいい人間の頭を悪くする落とし穴がいっぱいある。普段なら、優秀な判断ができる人がかっとなったり、不安になったりして、とんでもない判断をすることは珍しいことではない。やはり、瞬間的かもしれないが頭が悪くなっているということだ。

成長できる人間になる

 多重知能のどのジャンルで頭が良くなるにせよ、社会的に成功できるような頭の良さを身につけるにせよ、私が重要だと考えるのは、その能力を少しずつでも高めていくような人生でありたいということと、それをふいにするような「人間の頭を悪くする」落とし穴に陥らないことだ。

 感情のコントロール能力が必要なのは、かっとなってトラブルを起こすのを回避するだけでなく、人間というのは不安なときには判断を誤ることが珍しくないし、気分が落ち込んでいるときは悲観的な判断をしがちだからだ。自分の判断が普段と違ったものでないかという自己モニター(これは自分の認知パターンを認知するので「メタ認知」と呼ばれる)や、他人から見て普段と違っていないかを聞くモニタリングを行うことが重要だろう。

 現代の認知科学では、思考パターンによって感情に振り回されやすいかどうかの傾向が大きな影響を受けるとされる。例えば、「二分割思考」をする人は、味方でなければ敵、正解でなければ間違いというような判断をする。すると、味方と思っていた人がちょっと自分の批判をすると敵になったと考えて、怒り感情や不安感情が高まりやすい。あるいは、自分が正解と思っている解答以外の解答を出されると、それをろくに検討しないで却下ということになりかねない。

 また、「かくあるべし思考」の強い人は、自分がかくあるべしの通りに動けなければパニックになったり、ひどく落ち込んだりしやすいし、他人がそうでないときには怒り感情が高まりやすい。

 「それもあり」「正解は一つと限らない」と思える柔軟な思考パターンが身につくだけで、心理的な余裕が生まれ、より妥当な判断につながりやすいはずだ。

 自分の頭を良くするためにもう一つ、私が大切だと考えるのは、昨日より今日、今日より明日のほうが賢くなりたいという成長欲求だろう。歳をとると「もうこれ以上、勉強はいいだろう」とか、「だんだん脳が衰えてきた」と思うかもしれないが、それでも心がけ次第では賢くなれる。

 失敗学を提唱する畑村洋太郎 東大名誉教授に言わせると、失敗は放置しておくと同じ失敗のもとにしかならないが、それを分析反省すれば、二度と同じ失敗はしないし、失敗から学べる。私もこの考え方に同意する。人生経験を重ねることで、失敗を何度もするだろうが、それを二度としなくなるだけで、それだけ成長したと言えるはずだ。

 世の中が不確実なものになってくるにつれ、やってみないと答えが出ないことが増えていくだろう。そういった環境においても、試すアイデア(知識)が豊富で、実際に試す実行力があり、仮に失敗してもまた新たなアイデアを試してみようと思える精神力があれば、いつかは成功できる可能性がかなり高くなる。私は、この知識と実行力と精神力のセットを知的体力と呼んでいるが、歳をとっても試し続けることができたら、成功はともかくとして、新たな発見には常に出会えることだろう。

何のために勉強するのか

 私が、自分は「昔はバカだった」と思う最大のポイントは、世の中に「正解」があると考えていたことだ。

 精神分析の勉強にしても、老年医学の勉強にしても、勉強をしていれば、あるいは経験を積んでいけば、正解にたどりつけると信じていたのだ。

 このやり方で治療すれば患者が良くなるという正解を求める発想であれば、仮に何回かうまくいくと、それが正解だと思いかねない。しかし、その次の患者には当てはまらない可能性は決して小さくないのだ。

 自然科学の世界だって、それまで信じられていた説がひっくり返されることはざらにある。ノーベル賞の多くはこれまでの説をひっくり返したような研究に与えられるものだ。これが答えだと学んでも、10年後にその答えが正しいとは限らない。脳科学にしても、人間の生きている脳を使って研究できないのだから、あくまでも仮説である。行動経済学にしても、それが経済学の正解とは限らない。もっと複雑な要因を包含できる新たな理論だって生まれることだろう。

 ということで、昔は正解を得たいと思って勉強していたが、今はいろいろな可能性やいろいろな考え方を知るために勉強するようになった。そうしておけば、ある説がダメだと分かっても簡単に別の説に乗り換えられるからだ。あるいは、場合に応じて正解を変えることもできる。

 歴史の学説にしても、例えば南京大虐殺で何人死んだとか、実際になかったとかいろいろな説があるが、どれが正しいと意地を張るより、どの可能性もあると思うようにしたということだ。

 したり顔で知識をひけらかしたり、学説を主張する人より、この手の柔軟性がある人のほうが私には賢く見えるし、これなら歳を重ねても賢くなっていける気がする。

 もちろん、この考えも将来変わるかもしれないが、今、私の考える頭の良さやそれを達成するための暫定的な結論を『新・頭のよくなる本』(新講社)という本にまとめておいたので、目を通していただけると幸いである。

 
公文式の良さ、公文式の習い方
2017-10-31
おおた としまさ先生の
「なぜ、東大生の3人に1人が公文式なのか
というタイトルの著書があります。
非常に示唆に富む著者です。
P.152 に
「名門校の生徒は早めに公文をやめている!?」
という記載があります。

 

興味のある方は是非お読みください。

 
実語教(再掲載)
2017-06-28
実語教(じつごきょう)は、平安時代末期から明治初期にかけて普及していた庶民のための教訓を中心とした初等教科書とも言うべきもので、寺子屋では学問をする者の心構えとして誦せられました。

 

 

山高(やまたか)きが故(ゆゑ)に貴(たっと)からず

木(き)有(あ)るを以(もっ)て貴(たっと)しとす

山はただ高いから尊いのではない。

木が茂っていてこそ尊い。

 

人(ひと)肥(こ)えたるが故(ゆゑ)に貴(たっと)からず

智(ち)有(あ)るを以(もっ)て貴(たっと)しとなす

人は富があるから尊いのではない。

智恵があって尊い。

 

富(とみ)は是(これ)一生(いっしょう)の財(たから)

身滅(みめっ)すれば即(すなは)ち共(とも)に滅(めっ)す

富は、一代だけのもの。

肉体が消滅すると、消え失せる。

 

智(ち)は是(これ)万代(ばんだい)の財(たから)

命(いのち)終(お)はれば即(すなわ)ち随(したが)い行く

智恵は、何代にもわたる宝。

命が終わったとしても、ついてくる。

 

玉磨(たまみが)かざれば光(ひかり)なし

光(ひかり)なきを石(いし)瓦(かわら)とす

玉は磨かなければ光はない。

光がないのは、ただの石や瓦である。

 

人(ひと)学(まな)ばざれば智(ち)なし

智(ち)なきを愚人(ぐにん)となす

人も学ばないと 智恵はない。

智恵のないのは、愚人である。

 

倉(くら)の内(うち)の財(ざい)は朽(くち)ることあり

身(み)の内(うち)の才(さい)は朽(くち)ることなし

蔵の内にある財宝は朽ちることがある。

体の内にある智恵は、朽ちることがない。

 

千両(せんりょう)の金(こがね)を積(つ)むと雖(いへど)も

一日(いちにち)の学(がく)には如(し)かず

千両の大金を積んだとしても、

一日学んだことには及ばない。

 

兄弟(けいてい)常(つね)に合(あ)はず

慈悲(じひ)を兄弟となす

兄弟といつまでも一緒にいることはできない。

慈悲を兄弟としていつまでも一緒に過ごすのである。

 

財物(ざいもつ)永(なが)く存(そん)せず

才(さい)智(ち)を財物(ざいもつ)となす

財物は長くは存在しない。

才能、智恵こそが財物である。

 

四大(しだい)日々(ひび)におとろへ

心神(しんじん)夜々(やや)に暗し

身体(地・水・火・風の四元素から成る)は日々衰え、

心も魂も日ごとに衰えてゆく。

 

幼(いとけな)き時(とき)勤学(きんがく)せざれば

老(おい)て後(のち)恨(うら)み悔(く)ゆと雖(いへど)も

尚(なお)所(しょ)益(えき)あることなし

幼い時に熱心に学ばないと、

老いた後に恨み悔やんだとしても、

やはり、無駄である。

 

故(ゆゑ)に書(しょ)を読(よ)みで倦(う)むことなかれ

学(がく)文(もん)に怠(おこた)る時(とき)なかれ

ゆえに、書籍を読むことに飽きてはいけない。。

学問を怠ってはいけない。

 

眠(ねむり)を除(のぞ)いて通夜(よもすがら)誦(じゅ)せよ

飢(うゑ)を忍(しの)びて終日(ひねもす)習(なら)へ

眠りを除いては、一晩中、声を出して書籍を読め。

空腹をも我慢し 一日中、学べ。

 

師(し)に会(あ)うと雖(いへど)も学(まな)ばざれば

徒(いたづら)に市人(いちびと)に向(むか)うが如し

師に会ったとしても、その師から学ばなければ、

無駄に そのあたりのいる人と会うのと同じようなものである。

 

習(ならひ)読(よ)むと雖(いへど)も復(ふく)せざれば

只(ただ)隣(となり)の財(たから)を計(かぞふ)るが如し

習読したとしても、反復なければ、

ただ、隣の家の財宝を数えるのと同じようなものである。

 

君子(くんし)は智者(ちしゃ)を愛(あい)す

小人(しょうじん)は福人(ふくじん)を愛(あい)す

立派な人間は智恵のある人を好む。

つまらない人間は金を持っている人を好む。

 

富貴(ふうき)の家(いえ)に入(い)ると雖(いへど)も

財(ざい)なき人(ひと)のためには

なお霜(しも)の下(した)の花(はな)のごとし

たとえ金持ちの家に入って 財宝を持ったとしても、

その任にふさわしくない人は、

霜の下に消える花のようなもので、存在意義がない。

 

貧賤(ひんせん)の門(もん)を出(い)づると雖(いへど)も

智(ち)ある人(ひと)のためには

あたかも泥中(でいちう)の蓮(はちす)の如(ごと)し

たとえ貧しく賤しい家に生まれたとしても、

智恵のある人は、

泥の中に咲く蓮の花のようなものである。

 

父母(ふぼ)は天地(てんち)の如(ごと)し

師(し)君(くん)は日月(じつげつ)の如(ごと)し

父母は天と地のようである。、

師は太陽と月のようである。

 

親族(しんぞく)はたとへば葦(あし)の如(ごと)し

夫妻(ふさい)はなお瓦(かわら)の如(ごと)し

親族は、たとえて言えば葦のようである。

夫婦は、やはり瓦のようである。

 

父母(ふぼ)には朝夕(てうせき)に孝(こう)せよ

師(し)君(くん)には昼夜(ちうや)に仕(つか)へ

友(とも)に交(まじわ)って諍(あらそ)ふことなかれ

父母には、朝に夕に孝行せよ。

師や主には、昼夜、仕えよ。

友と親交し、争ってはならない。

 

己(おのれ)より兄(あに)には礼(れい)敬(けい)を尽(つく)せ

己(おのれ)より弟(おと)には愛顧(あいこ)をいたせ

自分より年長の者には礼儀正しく敬え。

自分より年下の者はかわいがれ。

 

人(ひと)として智(ち)なきは

木石(ぼくせき)に異(こと)ならず

人として智恵を持たないのは、

木や石に異ならない。

 

人(ひと)として孝(こう)なきは

畜生(ちくしやう)に異(こと)ならず

人として孝の心を持たないのは、

畜生に異ならない。

 

三学(さんがく)の友(とも)に交(まじ)わらずんば

何(なん)ぞ七覚(しちがく)の林(はやし)に遊(あそ)ばん

三学(戒学・定学・恵学)を学ばずして、

いかにして、七覚の林で遊ぶことができようか。

 

七覚(択法覚・精進覚・喜覚・軽安覚・捨覚・定覚・念覚)

 

四等(しとう)の船(ふね)に乗(の)らずんば

誰(た)れか八苦(はっく)の海(うみ)を渡らん

四等(慈・悲・喜・捨)の船に乗らないならば、

誰が八苦の海を渡れようか。

 

八苦(生・老・病・死・愛別離苦怨憎会苦求不得苦五蘊盛苦)

 

八(はっ)正(しょう)の道(みち)は広しといへども

十(じゅう)悪(あく)の人は往かず

八正道は広大な教えだけれども、

十悪を行う者にはできない。

 

八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)

 

十悪(貪欲・瞋恚・愚痴・綺語・両舌・悪口・妄語・殺生・偸盗・邪淫)

 

無為(むゐ)の都(みやこ)に楽(たの)しむと雖(いへど)も

放逸(ほういつ)の輩(ともがら)は遊(あそ)ばず

無為の都(極楽、浄土)で楽しむといっても、

だらしなく、心のおもむくままの行動をするやつは、

極楽、浄土では遊べない。

 

老いたるを敬ふは父母の如くし

幼きを愛するは子弟のの如くせよ

老いた人を敬うのは、父母のようにし。

幼い人を愛するのは、子どもや弟妹のようにせよ。

 

我(われ)、他人(たにん)を敬(うやま)へば

他人(たにん)、また我(われ)を敬(うやま)ふ

自分が他人を敬うと、

他人もまた自分を敬う。

 

己(おのれ)、人(ひと)の親(おや)を敬(うやま)へば

人(ひと)、亦(また)己(おのれ)が親(おや)を敬(うやま)ふ

自分が他人の親を敬うと、

他人もまた自分の親を敬う。

 

己(おのれ)が身(み)を達(たっ)せんと欲(ほっ)せば

先(ま)ず他人(たにん)を達(たっ)せしめよ

自分の身を良くしようとしたければ、

まず他人を良くさせよ。

 

他人(たにん)の愁(うれひ)を見(み)ては

すなはち自(みずか)ら共(とも)に患(うれ)ふべし

他人が悲しんでいるのを見たならば、

自分もともに悲しむべき。

 

他人(たにん)の喜(よろこ)びを聞(き)いては

すなはち自(みづか)ら共(とも)によろこぶべし

他人が喜んでいる声を聞いた時は、

自分もともにに喜ぶべき。

 

善(ぜん)を見(み)ては速(すみや)かに行(ゆ)き

悪(あく)を見(み)てはたちまちに避(さ)れ

他人の善行を見たなら、自分もそれを速やかに行い、

他人の悪行を見たなら、自分はそれを回避せよ。

 

悪(あく)を好(この)む者(もの)は禍(わざわひ)をまねく

たとえば響(ひびき)の音(おと)に応(おう)ずるが如(ごと)し

悪行を好んで行う者は不運を招く。

音の響きに共鳴するようなものである。

 

善(ぜん)を修(しゅ)するものは福(ふく)を蒙(かう)むる

あたかも身(み)に影(かげ)の随うが如(ごと)し

善行を行う者は幸福を受ける。

体の影が体について動くようなものだ。

 

富(と)むといへども貧(まづ)しきを忘(わす)るることなかれ

或(あるい)は始(はじめ)に富(と)み終(おわ)りに貧(まづ)し

ものごとには盛衰がある。

裕福であったとしても、貧しい時の気持ちを忘れるな。

裕福であったとしても、やがて貧しくなることもある。

 

貴(たっと)しといへども賤(いや)しきを忘(わす)るることなかれ

或(あるい)は先(さき)に貴(たっと)く終(のち)に賤(いや)し

高貴であったとしても、賤しい身分であった時の気持ちを忘れるな。

高い身分であっても、やがて賤しい身分になることもある。

 

夫(そ)れ習(なら)いがたく忘(わす)れやすきは

音声(おんじやう)の浮(ふ)才(さい)

習うのが難しく、忘れやすいのは、

謡、浄瑠璃、小唄、笛、太鼓ような芸である。

 

また学(まな)び易(やす)く忘(わす)れがたきは

書(しょ)筆(ひつ)の博(はく)芸(げい)

学ぶのが易しく、忘れにくいのは、

読み書きの才能である。

 

但(ただ)し食(しょく)あれば法(ほう)あり

亦(また)身(み)あれば命(いのち)あり

食があり、身を育てる。

身は、命があってこそ存在する。

身のことでも、根本が大切である。

 

猶(な)ほ農業(のうぎやう)を忘(わす)れず

必(かなら)ず学(がく)文(もん)を廃(はい)することなかれ

食糧をえるために、農業に辛苦する人のことをを忘れず、

学問をやめてはならない。

 

故(ゆゑ)に末代(まつだい)の学者(がくしゃ)

先(ま)ずこの書(しょ)を案(あん)ずべし

それゆえに、後の世の学問に励む初心の者は、

まず、この実語教を読み、説いていることを思案するべし。

 

是(こ)れ学問(がくもん)のはじめ

身(み)終はるまで忘失(ぼうしつ)することなかれ

この実語教は学問の出発点である。

死ぬまでここに書いていることを忘れるな。

 
先ずは片付けから
2017-02-27
「トヨタの仕事カイゼン術」
マンガで分かりやすい本です。
勉強も同じですね。
5S
整理(要らないものは捨てる)、
整頓(必要なものは すぐに取り出せる)、
清掃(常に綺麗にしておく)、
清潔(整理、整頓、清掃した状態を保つ)、
しつけ(決められた手順、ルールをまもる)
 
 
 
知的生活(21 最終回) よき師、よき友
2017-02-23
 よき師匠について、様々な教えを請い、学んでゆく。
友、付き合う人を選び、互いに学んでゆく。
賢人は友を選ぶので 友達の数が少ないと言われています。
 
A man is known by the company he keeps.
 人はその友によってその人の本質が知られます。
 
 
知的生活(20)日記を書く
2017-02-19
 数分 時間を割いてメモ程度の日記をつけるだけで、
1日の記憶をたどることで、脳が活性化されるそうです。
反省の材料にもなります。
 
 
 
 
知的生活(19)基礎と基本の違い
2017-02-17
 幼児、小学低学年の教材「エジソンクラブ」の新村一臣(にいむらかずおみ)先生は、
基礎と基本の違いをスポーツに喩えて、
「基礎は体力や柔軟性」
「基本は野球で言うと バットの振り方、テニスではラケットの振り方」
とよくおっしゃいます。
すべて物事を習得する上で重要なことです。
「基本」の練習から始める人が多いのにびっくりします。
「基礎」が無いのに基本から始めても意味がありません。
 
 
知的生活(18)実践
2017-02-10
 新しい情報、知識を手に入れたら、
それをもとに行動し実践することです。
頭にしまい込んでいるだけでは、ダメです。
活用し行動しなければ ものごとは達成できません。
しかし、行動しても直ぐにうまくいくとはかぎりません。
試行錯誤を繰り返して向上してゆくものなのです。
 
 
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